2021/04/25 01:34

石垣島の一部の地域では、まるで中華圏のような祭事が行われている。

 豚の丸焼きや、真紅の飾りつけに、鳴り響く爆竹。
 ここは中国か台湾か。

 土地公祭という豊年祭のようなお祭りが、毎年旧暦の8月15日、新暦だと9月~10月ごろに、石垣島の名蔵(なぐら)という地域だ。

 豚を供物としてささげることから、通称「豚祭り」とも呼ばれている。本来、土地公である「福徳正神」を祀るもので、豊作、商売繁盛、幸福と無病息災を祈願する。

 これは、華僑八重山分会が主催する台湾入植者による豊年祭にあたる行事で、台湾全土で旧暦8月15日に行われる伝統行事だ。

 なぜ台湾の伝統行事が石垣島で行われているのだろうか。

 石垣島は戦前に、台湾からのパイナップル農家が多く入植し、戦後には集団帰化が行われた歴史を持っている。

 今日、パイナップルは石垣島の特産品となっており、市内の農業生産品としてもサトウキビ、葉タバコ、米に次ぐ一大農産物となっているが、台湾にルーツを持っていることはあまり知られていない。本島でもあまり知られておらず、内地であれば全く知られていないと言っても過言ではない。

 もちろん、パイナップルのルーツだけに限らず、台湾からの入植者の歴史はさらに知られていることは無い。

 彼らが石垣島はじめとする八重山地方に入植したのはおよそ90年前。戦前の日本である。彼らは時代の波に翻弄され、日本人からの差別や偏見、第二次世界大戦、アメリカの統治から本土復帰と、壮絶な歴史をパイナップルと共に歩んできた。

 このnoteでは、南国石垣島だからパイナップルが当然のように栽培されているわけでは無く、台湾人入植者の血のにじむような苦労と歴史が裏にあり、そのお陰で我々もその味を楽しめている、ということを少しでも多くの人に知ってもらいたいと思っている。

 石垣島のパイナップルには美味しさだけではなく、歴史もたくさん詰まった味なのだ。

石垣島と台湾のはじまり

 1894年に勃発した日清戦争が、石垣島と台湾の歴史の始まりとなる。

 戦争に勝利した日本は、日清講和条約、通称下関条約によって台湾を清国から割譲し、台湾は日本国の一部となった。

 台湾に一番近い日本の領土は、石垣島を中心とした八重山諸島である。(石垣島、西表島、与那国島など)最西端の与那国島から台湾までは約111km、東京までは約2000km。八重山諸島からは台湾の方が圧倒的に近いことが分かる。

 国境の無くなった台湾との交流は、それまで以上に盛んになり、頻繁に物資や人の往来が行われるようになった。となりの国というよりも、となりの村という感覚だろうか。

 台湾からは農耕技術が、石垣島からは漁業が。
 お互いの優れた技術でお互いを補完し合える関係であった。特に石垣島は、内地からも本島からも遠く離れていたため、その農耕技術は原始的なものであったが、台湾との交流によって石垣島の農耕は飛躍的に成長を遂げることができた。

パイナップルのはじまり

 当時、台湾には多くのパイナップル農家や加工工場が存在した。しかし、日本政府からある種の社会実験場とされていた台湾は、インフラ整備や教育環境の整備といったプラスの政策もとられる一方で、統制や規制も強いられていた。その一つがパイナップル農場と工場の公営化による統合であった。

 統合によって廃業を強いられる企業も出ていた。

 台湾で追いやられてしまったパイナップル農家たちは、新天地を求めて渡った先が石垣島であった。石垣島は台湾と同じ酸性の土壌で、パイナップルの栽培に適した環境であることが確認できると、総員300人で来島し、1935年大同拓殖株式会社を設立し、石垣島のパイナップル栽培の歴史の第一歩を踏み出した。今から86年前のことであった。

台湾人入植者と島民との衝突

 入植者たちは原生林を開墾し、精力的にパイナップル畑を拡げていった。この時、田畑の開墾のために多くの水牛を持ち込んだ。この水牛の子孫たちが、今も八重山諸島には生きており、竹富島や西表では牛車に乗って島を巡るコースが一大観光名所となっている。

画像5

 水牛による効率的な開墾と、働き者の台湾人は次第に島民から疎まれる存在となる。このまま牛と台湾人が増え続けると、自分たちの仕事を奪われ、島を乗っ取られるのではないか、と。

 まずは水牛の持ち込みを検疫を理由にストップをかけ、持ち込まれたパイナップルの苗についても焼却処分されることとなってしまった。とある県職員の計らいによって、全ての焼却は免れたものの、一部の入植者たちは嫌気がさし台湾へと帰ってしまった。

 その後も入植者と島民との小競り合いは続きましたが、少しずつその溝を埋めようと努めます。入植者たちへは日本語や日本の礼儀作法などの教育、島民にはパイナップル栽培の方法を。それでも、島民から入植者に対しての差別や偏見は収まらなかったようだった。

 そんな数々の苦境に立たされたパイナップル栽培も、数年後には収穫することができ、パイン缶詰の製造にまでこぎつけることに成功した。

戦中・戦後のパイナップル

 1941年、日本が太平洋戦争に突入したことにより、パイナップルは贅沢品ということで栽培が禁止となり、パイナップル畑は芋畑となった。

 戦争が進むにつれ、石垣島の入植者たちも疎開や台湾帰国と散り散りバラバラとなってしまった。

 それでも終戦後、再び入植者たちは石垣島へ帰ってきた。パイナップル栽培を再起させようと奮起した。

 パイナップルは換金作物として、入植者だけに限らず島民にも広まっっていった。そのため、生食だけでは消費しきれないほどの収穫量となり、パイン缶詰の製造が本格的に始まった。内地との貿易も再開されると、高度経済成長の波に乗り、取扱高は激増。パイナップル栽培と缶詰製造は石垣島の一大基幹産業となった。

画像1

 その後もパイン農家は増え続け、日本国内市場に出回るパイン缶詰のほとんどが石垣産(沖縄産)で占められるようになると、島民だけでは労働力が足りず、台湾から多くの女性工員が来島することとなる。

 繁忙期はパイン缶詰工場で、閑散期は製糖工場でと、良く働く台湾人女性の活躍によって、少しずつ島民の見る目も変わっていった。分断から共生へ、対立から共存へ、次第に両者の溝は埋まりはじめ、経済的な関係から文化的な交流へと関係を深めていった。

本土復帰とパイナップル需要の落ち込み

 1972年、沖縄は本土復帰した。

 この頃から、沖縄保護政策の打ち切りや貿易自由化によって、海外から安いパイン缶詰が輸入されるようになり、次第に国産パイン缶詰の需要は落ちはじめる。

 1996年には八重山最後のパイン缶詰工場が閉鎖された。それ以来、パイナップルは青果物として出荷されるに留まっているのが現状である。

 パイン缶詰の需要が落ち込むと、同じように加工用パイナップルの生産量も収穫面積も見る見るうちに萎んでしまった。

画像2

※出所:「沖縄・石垣島におけるパインアップル生産の危機と再生」レポート/東京大学大学院 総合文化研究科 新井祥穂氏・永田淳嗣著より

 一方、生食用のパイナップルはどうかと言うと、観光客の数とともにここ数年は右肩上がりではあるものの、来島する観光客の数によって大きく影響を受ける。

 2020年は新型コロナウィルスの影響で、収穫されたパイナップルはその行き場を失い、そのほとんどが廃棄処分となってしまった。今年も、先行きの見えない状況の中、間もなく収穫の時期を迎えようとしている。

画像4


※出所:https://www.pref.okinawa.jp/site/norin/norin-yaeyama/r1sassi.html

台湾人と国籍問題

 これで台湾人入植者たちの歴史は、終わったわけではない。今もその多くの子孫たちが石垣島に住んでいる。

 戦後、石垣島に住む台湾人たちは日本人ではなくなり、石垣市在住の一外国人となった。多くの台湾人は日本国籍を取得したかったが、当時はそれを台湾政府が許さなかった。

 日中国交正常化(1972年)ののち、台湾政府は国籍離脱を許し、台湾人の日本への帰化が実現した。

石垣島パイナップルは歴史が詰まった味

 八重山に入植した台湾人は、日本、台湾、中国、アメリカと、国家と歴史の荒波に飲み込まれながらも、地道に自分たちのアイデンティティであるパイナップル栽培を続け、今日に至る。

 今も多くの3世、4世、5世と、1935年に入植した台湾人の子孫たちが、石垣島を中心とした八重山地方で暮らしている。

 未だにパイナップル栽培を生業としている子孫は多くは無い。祖先たちのアイデンティティから少しずつ距離が生じつつあるかもしれないが、4世、5世は自分たちのアイデンティティで思い悩むことはほとんどないと言う。

 しかしその心の平穏は、このたった100年にも満たない年月の中で、先人たちがもがき苦しみ抜いて、今にもたらされている。

 石垣島のパイナップルには、そんな知られざる歴史が詰まっている。もしも口にする機会があれば、味だけではなく歴史にも思いをはせながら楽しんでもらいたい。